Shinko
  
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    天理教新興分教会
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沿  革 教会略史
新興分教会略史

歴 代 会 長
初代会長
梅本藤一郎
二代会長
梅本藤次
三代会長
水本マツエ
四代会長
水本良太郎


  初代担任・梅本藤一郎は、明治十二年三月二十六日、奈良県吉野郡新住村九四番屋敷(現奈良県吉野郡下市町大字新住九七番地)梅本清吉の長男として生まれた。明治二十五年ごろより下市にでていた梅本藤一郎は、当時、漆器業を営んでいた下市支教会二代会長島久吉のもとで働いていた。熱心に信仰する島久吉夫婦の姿を常に目のあたりに見ているうちに、明治三十七年五月二十五日、初席を運んだ。妻を娶り一男二女に恵まれて、親子五人の楽しい生活が続いていたが、明治四十二年、妻・ヌイが軽い精神病となり、幸せであった家庭が一瞬にして崩れていった。人生の悲哀をひしひしと感じた梅本藤一郎は、強く信仰を求めるようになり、島久吉の仕込みを進んで受けるようになった。理の親であり、仕事の上でも親方として慕っていた島久吉の教えを、梅本藤一郎は素直にうけ、ご守護頂いた妻・ヌイも別席へと進んだ。
  大正十年、教祖四十年祭が提唱され「よなおり」の旬を迎えようとするお道は、大きな飛躍を求め、倍加運動が進められていた。その大正十二年、教校別科第三十期に入り、たすけ一条の渦巻くぢばの理を充分に受け、下市に帰った梅本藤一郎は、おたすけに専念する心を定め、下市支教会に家族とも入り込み、下市支教会三代会長・島定吉の導きのままにおたすけに励んだ。
  この旬の理を受けて、教会倍加のご守護を頂きたいと念じ、懸命の努力を続けていた島定吉は、梅本藤一郎にも教会を設立させていただくようにと仕込んだ。藤一郎は、この親の思いになんとか添わせて頂きたいと、おたすけに拍車をかけるとともに、教会設立地を捜し求めて歩いた。
 大正十四年二月十九日、ときたまたま、吉野郷宣教所の支教会昇格の視察にきた奈良教区長・梶本宗太郎は、梅本藤一郎が願う新設教会候補地を視察したが、教会として認め得られぬ家屋であった。しかし、梅本藤一郎の、どうでも名称の理を戴きたい、との信仰信念を感じとった梶本宗太郎教区長は、どこか他に候補地はないか、と暖かい声をかけた。そこで、心にうかぶまま思いあたる家の視察を願い出たところが、教会設立のお許しを戴いたところとなった。認めて頂けなかった場所はどこであったかは不詳であるが,心にうかび申し出た地は、小高い丘の上にあり、米穀商・岡村富吉の別荘で、土地、五十四坪、木造瓦葺平屋建、二十七坪であった。持ち主とだんじあいの結果、借用することになり、内部を一部改造の上、教祖四十年祭の祭典がつとめられる前の大正十五年一月十七日(教甲第一四一〇号)奈良県吉野郡下市町大字下市八七七番地に、新興宣教所設立のお許しを戴いた。初代担任は、梅本藤一郎である。同年五月十四日(指令社兵第五七九号)地方庁の認可を得た。教祖四十年祭の時旬の理と、親の声を素直に受けて歩む道が、名称の理のご守護となって現れたのである。
 初代担任・梅も藤一郎は、おたすけに熱心な人であり、酒を好み、豪放で感激家であったので、初代によってにおいをかけられた人びとも多く、月次祭は常に盛大につとめられていた。若いころより、下市支教会二代会長・島久吉の厳しい仕込みを受け、素直に道を求めて通っていたが、教祖五十年祭、立教百年祭の両年祭をつとめ終えたのち、昭和十四年十一月十六日、六十一歳で出直した。
 初代担任・梅本藤一郎の出直しにより、二代担任として、昭和十五年三月二十三日、梅本藤次が、二代担任に就任した。新興宣教所は、昭和十六年三月、教規改定により、新興分教会と改称された旬に、地方庁の認可を受けながら、まだお目標様をお鎮め申し上げていなかったので、昭和十六年十一月十四日、お目標様の下附を戴き、同年十二月十六日、鎮座祭、翌十二月十七日、奉告祭をつとめた。

  豪放な初代担任とは異なり、二十四歳で二代会長となった梅本藤次は、温厚な性格であったので、人びとに好かれたが、戦争が激しさを加えるの従って政府の弾圧が加わり、布教活動も充分にできなくなった。さらに、母・ヌイと姉・ミキエの二人の身上者をかかえて通るには気が弱く荷が重過ぎた。昭和二十年四月七日、姉・ミキエ、同年九月十五日、母・ヌイが相次いで出直し、二人の身上の世話のため独身を通した長姉・マサも、昭和二十二年三月二日、出直した。
 戦後の混乱のなかに与えられたふしのなか、また、ふしの道中、孤独の身となった二代会長は、心を倒すことなく歯をくいしばって理のご用を勤めた。しかし、相次ぐふしと世相の混乱があいまって、親神様を信じ切れない人びとは、次第に教会から遠ざかって行った。ついに、心を倒した二代会長は、肺結核の身上を頂き、下市分教会で療養する身となったが、昭和二十四年八月十七日、三十四歳の若さで出直した。梅本家のいんねんの姿とはいえ、心通りにご守護を頂けるのだと、親神様の思召を伝える我が身が、その心になり切れぬもどかしさと、気は焦れども思うにまかせぬ我が身を嘆きながら、いんねんを通って果たし、新しい身上を借りて、ふたたび親神様にお使い頂ける日を念じつつ出直した。

  二代会長の出直しにより後継者が問題となった。下市分教会四代会長・島継夫は、苦慮した末、大阿太分教会、倉本常一と結婚したが、夫の戦死後、島家にもどり、奈良県吉野郡大淀町に住む水本良太郎と結婚していた実妹・水本マツエを後任に選定した。水本マツエは、昭和二十四年十一月十六日(教丙第一一六七号)三代会長のお許しを戴いた。
 教会の子弟に生まれ育った水本マツエが、いんねんのまま通っている姿を憂いていた島継夫は、なんとか親の望んでいたたすけ一条の道を歩ませてやりたいと、かねてから念願していた。教会に住み込んだ水本良太郎、マツエ夫婦は、悪評の舞うなかを一筋心で歩んだ。夫・良太郎は、少年時代岡山県のある寺に預けられ、京都比叡山で僧侶として修行したこともあり、どうしても仏教の信仰からはなれられなかったが、妻が熱心に道を歩む姿を見て、同じ信仰者として、特に反対もしなかった。
 夫・良太郎は、持ち前の器用さから割箸の製造に従事し、教祖のお箸を始め、天皇陛下にご使用頂いたものや、広く茶道の家元たちが愛用した逸品を手造りし、割箸にかけては名人と唄われた職人であった。一面、酒は一滴も飲めなかったが、陽気な親分肌であり、困っている人を放っておけず、教会につれて帰ったり、警察に貰いさげに行ったりしたので、教会は麻薬中毒者の巣と化し、酒場、賭博場となることもあり、良太郎を慕ってくる不良者が集まっては、適当な場所を求めて各地に散って行った。そのような道中も、三代会長は心を砕いて通った。
  そのころ、たすけ委員長・中山善衞様が、奈良教区修理人として、新興分教会にお入り込み下さることになった。当時、水本良太郎は、肺に十円玉の空洞がある疑いのため入院していた。おたすけに通った下市分教会五代会長・島正教が、おふでさきを置いて帰った。むさぼるように拝読した水本良太郎は、始めて親神様の御心にふれ、この信仰を生涯の道と心に定めたところ、肺の身上は医者の誤診であったというご守護を得て退院した。修理人のお入り込みという旬を通して、親神様がお導き下されたふしであった。その陰には、三代会長のもくもくと進んだ道があった。大きな教勢の伸展はなかったが、三代会長の真実の道は、昭和四十二年十二月二十四日、奈良県吉野郡天川村大字川合に、椿井照子を所長として、興実布教所が開設されるというご守護を頂いた。
 下市分教会五代会長・島正教は、水本良太郎に、一日も早く道一条となり、会長変更をするようにすすめていたが、良太郎は容易に承諾しなかった。道一筋を望まれる親神様は、心の成人を急き込まれる上から、ふたたび良太郎の身上にしるしをつけてお仕込み下された。上級の仰せどおり通る心を定めると不思議にご守護頂いた。

  昭和五十三年六月二十六日(教丙第一三二一四号)四代会長のお許しを戴いた水本良太郎は、このとき、すでに食道癌の身上となっていたが、かりものの身上を一日もゆるがせにせずおたすけに使わせて頂きたいと懸命に勤めた。身上のすぐれぬ四代会長の手助けに、会社勤めにでていた長男・水本治男が、家族とともに教会に帰ってきた。肉親の縁のうすかった四代会長は、子供を愛し、少年会活動に特に力を注いでいたが、身上は刻一刻と迫っていた。昭和五十四年十一月二十日、六十四歳で出直すまで、常に道の上に心をこめ、一年五カ月の短い四代会長としての勤めであったが、後継者の心の成人を促し下さる親神様の深い思召であった。

  昭和五十五年一月二十六日(教丙第一四一三六号)五代会長のお許しを戴いた水本治男は、親に喜んで頂ける道を歩む心を定めた。この道は、心を定めて身をもって行う道である。五代会長には、二代、三代、四代の歴代会長に代わる堅固な身上と若き行動力を貸し与えられている。諭達第三号が公布され、喜び勇んで教祖ひながたの道を歩むべき旬を与えられた。人間思案をすてて、真のよふぼくとしておさづけの取次ぎに、にをいがけに、理の親に喜んで頂けるような成人を心に、教祖百年祭の旬の理を頂いて、足元を見つめながら歩み続けている日々である。

 水本治男は、昭和五十五年一月二十六日、父親の後を受けて、新興分教会五代会長を拝命した。長年の会社勤めを辞めて道一条に出たのである。
道一条に出た水本治男であったが素直に志していたわけではない。当時は会社員として順風満帆の頃でもあり、道一条になることなど念頭になく親子四人の一般的な暮らしをしていた。しかし、親神様の思いは、水本治男を社会での暮らしや会社での出世よりもたすけ一条の道に出させることにあったのである。
 昭和五十三年秋、父である四代会長水本良太郎が食道癌となり、余命三ヶ月と診断された。この時、水本治男の妻・典子は、「親孝行とは、親が、今、一番してほしいことをさせて頂くことではないか」と主人に迫った。親とは親神様、教祖、理の親、そして肉親の親であり、産み育ててくれた総てが親である。典子は、今は、父・会長の看病のために会社を退職して教会へ帰り、道一条を通らせて頂くことだと言う。妻が夫の両親のことを気遣ってくれる真実の心に水本治男は幼い二人の子どもを連れていよいよ教会の人となる決意をした。妻の言葉に、悩んだ末に出した大決心であった。昭和五十三年十二月末日をもって退職。僅か八年間の世情の暮らしであった。年の瀬も慌しく大阪寝屋川市の社宅を引き払い教会へ帰ったのである。水本治男三十一歳。典子二十八歳であった。
 前会長の身上からのお手引きと妻の説得により導かれた道一条の生活とはいえ、結局は自らが決心した道である。これからは勇んでにをいがけにおたすけに奔走することしか道はない。「自分が決めたことだ」と、自らに言い聞かせながら懸命ににをいがけにおたすけにつとめた。
教祖百年祭五年前の昭和五十六年一月二十六日、諭達第三号がご発布された。教祖百年祭は、過去の年祭に比べものにならない未曾有の年祭である。百という字は、白紙に戻り一より始めること。お互いの信仰の元一日にかえり、教祖にお喜びいただけるように教内挙げてしっかりこの道を歩ませていただく旬を迎えた。
  この旬の理を戴き、水本治男は、近くの布教だけではなく、日帰りできない遠隔地へ三日間だけ布教に出ようと決心して、以前、会社員時代に転勤で二年間暮らしたことのある京都府舞鶴市を選定した。舞鶴市まで片道の交通費しか持たず、後は神様のお与えがないと食べられない、帰っても来られないという覚悟の布教であった。果たして、水本治男は、昭和五十六年六月五日、東舞鶴駅に降りた。会社員時代、初めて支店長に昇格し赴任した懐かしい土地である。しかし、今回は、布教師としてやって来た。三日間と決めた野宿布教。若さゆえの無謀な行為である。さてどうするかと思案していると「夏のこどもおぢばがえりに子どもたちを連れて行こう」と、心に浮かんだ。早速、京都交通バス舞鶴営業所へ行き、大型バスを一台予約し、その座席表をもらって、一軒一軒「こどもおぢばがえり」に参加してくれる子供を探して歩いた。交通事故の子どものおたすけから不思議なご守護をいただき、この年の夏のこどもおぢばがえりには、予定通り大型バス一台、六十人の子どもたちが参加したのである。その後、毎年、夏のこどもおぢばがえりには列車やマイクロバスで参加した。
 昭和五十八年四月十日、大教会創立九十周年記念祭がつとめられた。この年の十月、水本治男は、奈良教区青年会副委員長を拝命し、教祖百年祭へ向かっている時旬であり、青年会活動として教区管内を隅から隅まで神名を流す青年布教隊が結成され、その責任者に指名された。管内十七支部を二泊三日で毎月順回し支部内の教会で合宿しての布教である。水本治男は、十七ヵ月間、参加した青年会員の先頭にたって布教隊をつとめた。
 昭和五十九年十月二十五日、ご本部神殿の上段改修・東礼拝場の竣工お礼のおつとめがつとめられた。かぐらづとめが目で見て拝することができるように上段を改修してくださったのである。
 そして、昭和六十一年一月二十六日から二月十八日まで教祖百年祭が盛大につとめられた。
 水本治男は、昭和六十二年二月から四月まで修養科第五五〇期の一期講師(教典講師)をつとめた。一期講師中の二月二十六日、上級下市分教会の神殿・付属建物増築願のお運びがあった。落成まで微力ながらひのきしんにつとめた。
  昭和六十三年に入り、教会周辺の山を宅地造成する計画が持ち上がり、新興分教会もその造成区域となるため移転の要請があった。今の神殿は、初代会長梅本藤一郎が設立したところで山の上にあり何かと不便であったので、談じ合いねりあいを重ね、上級教会と相談し移転することになった。移転地は、同じ造成区域で今までの土地から僅か五〇メートルのところである。吉野郡下市町大字下市八七七の基本財産処分、そして移転地との基本財産交換承認のお許しをいただき、立教一五一年四月二十六日、奈良県吉野郡下市町大字下市八八二番地六に、三間に六間の軽量鉄骨造亜鉛メッキ板葺二階建の神殿及び教職舎に、教会移転のお許しを戴いた。二階が神殿であり、教会の前は、六メートルの道路、敷地内に駐車スペースもある。同年五月七日、鎮座祭、六月十二日、奉告祭が執り行われた。
 平成五年四月四日、大教会創立百周年記念祭がつとめられ、十月二十六日には、諭達第四号がご発布された。
 平成六年五月六日、奈良教区修理人として、中山善司様が新興分教会へお入り込みくださった。
 平成八年一月二十六日、教祖百十年祭が執り行われた。
 平成十年七月、奈良教区では、教区事務所が管内教会布教所への連絡紙として作成していた「奈良教区報」を新たに編集部員を置いて作成することになり、水本治男は、駒谷和彦教区長から初代の編集責任者の命を受け、以後十年に亘りそのつとめを果たした。
また、平成十年十月二十五日、中山善衞真柱様から中山善司様に真柱の理が継承され、真柱継承奉告祭が行われ、同日、新真柱様から諭達第一号がご発布された。
 平成十一年五月八日、奈良県吉野郡下市町下市二六四二番地に、●●●●を所長に、「道乃理布教所」が開設された。
 平成十二年一月二十四日、大教会創立百十周年記念祭の打ち出しがあった。同年三月から五月まで、水本治男は、修養科七〇七期の御伝担当の一期講師をつとめた。この間の、四月十四日、水本治男は、脳梗塞の身上となったが、冨松幹禎大教会長様や、丁度修養科生中だった冨松基成後継者が毎夜おさづけに通ってくださったお陰で、大難は小難にご守護いただき、修養科は三日休んだが最後まで講師を務め終えることができた。水本治男会長は、この身上により、後頭部から足の先まで右半身に痺れが残ったが、日常生活はできるようにご守護いただいた。しかし、会長に見せられた身上の節に、教会内ではより一層たすけ一条に歩ませていただこうと誓った。
 この年の六月、知人の口添えから九州は福岡県前原市(現糸島市)へ道がついた。新たに九州布教が始まったのである。水本治男は毎月フェリーや夜行バスで九州に足を運んだ。九州での十年間で、修養科修了三人、教人二人誕生した。別席運び中は十人である。
 平成十四年四月二十四日、水本治男は、大教会おつとめ奉仕者に登用された。新興分教会としては初めての登用であった。同年十月二十六日秋季大祭に、諭達第二号がご発布された。同年十二月十三日、新興分教会三代会長水本マツエは八十八歳で出直した。
 平成十五年四月六日、大教会創立百十周年記念祭がつとめられた。同年六月から本部神殿西境内地拡張土持ちひのきしんが始まった。
 平成十六年六月二十九日、水本治男は、西吉野支部長を拝命した。
 平成十八年一月二十六日、教祖百二十年祭がつとめられた。この年は、毎日が年祭の心で通らせていただこうと一回でも多くおぢばがえりが提唱され、大教会では「参拝カード」を作って多くの人たちにおぢばがえりを啓蒙された。水本治男も元旦から毎日おぢばがえりを勇んでつとめていた。しかし、この年祭の年の九月二十六日、ご本部の月次祭が終わった、午後三時三十分、五代会長水本治男の妻典子は、昨年発症した乳癌の身上が元で五十四歳の若さで出直した。水本典子は、夫である会長を道一条へと導き、会長をたすけて、教会に繋がる人たちにもいつも笑顔で明るく前向きに道を求めて通った生涯であった。また、婦人会西吉野支部主任をつとめていた。教会発行の遺稿集「山百合が好きだった」に、五代会長夫人水本典子の人柄が偲ばれる。
 平成十九年四月一日、水本治男は、奈良教区地方委員を拝命、同日、奈良教区文化体育部副部長を拝命し、教区支部活動にも熱心につとめた。
 平成二十一年八月三十一日、本部布教部庶務課体育活動事務局に新設されたドッジボール委員会の委員に任命された。
 平成二十二年一月二十四日には、二年後の平成二十四年四月八日の大教会創立百二十年記念祭と大教会六代会長就任奉告祭に向かう決起大会が行われた。そしてこの年の四月二十四日に水本治男は、大教会准役員に登用された。
 現在、新興分教会では、当面している大教会創立百二十年記念祭と大教会六代会長就任奉告祭の二大慶事に向かって、大教会の活動目標である「たすかりたいからたすけたいへ さあ身近な人からおたすけを」のスローガンのもと、更には、老朽化している自教会の神殿のふしんのご守護をいただくべく新興分教会に繋がるよふぼく一同は誓いも新たに会長を芯に一手ひとつに勇んでつとめている。






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